コンテクストにおける正しさ

雲と靄と木々の向こうに望む月

重力があるからでもなく、2本の足があるから
でもなく、人は意思があるから立つのである。
と、誰かが言ったとか言わないとか。
 
味噌汁がうまいとは、飯もうまいに違いない。
(これは、まだ、わかりやすいだろう)
ソースがダメ?なら全てダメに決まってるだろう。そんなこともわからんのか?わからん?お前も同じやな。めんどうやな、とっとと消えてくれんか。
(こういうのはつらい...。異なるコンテクストが匂えばいいのだけれど)
 
正しいよ。正しいさ。コンテクストにおいて正しいさ。
でも、そんなこと言われたら(西洋料理は敢えて外し)、
「おたふくなくても、だしとサクサク感とキャベツの甘みがビールを旨くするのだよ」なんて言いたくなる。
 

  • テレビに対し「あはは、この人ダメやわ〜」

テレビはどうとしようもなく身の回りにあり、そう言ってくることを強制してくるのだ。テレビというものはどうとしようもない。そっと遠くに置く。
 

  • 誰かに何かを伝えたいもの、その人、その人の表現、魂をこめたもの

どういう立場のお方なんで?内側と外側を区別したがる方に多い、自分のコンテクストにあわないとダメであると、そこには自分のコンテクストの説明も何の工夫も配慮もない*1気がする。笑えるんならいいんよ。
 

  • 何で、そんなことを言う必要があるの?

他の人に対してであっても、うっかり、そういう言葉を聞いてしまったりする。その言葉は、がりがりと肺腑を抉ってくる。僕はこげ茶色の血がこびりついた黄色い液体を吸い出されるような気分になってしまう。そして、体内の気までも吸い出され、頭の中から血の気が引き目の前が真っ白になる。その人がどんなに素敵な人であってもだ。だから、気にしないようにしようとするのだが、体内に潜伏するウィルスのように、気を緩めると襲ってくる。こんなこと書く必要もないのだろうが、僕は体内に置いておくことが怖くなってしまっている。

*1:そりゃ、わからないけどね。その人のコンテクストを鑑みようという気もなければ、そもそも、そこに対するセンス(感覚)がないのである。多分、養う気もあまりない。そんなことに費やす時間が無駄なのだろう。(「大阪のおばちゃんあかんわ〜」と言っている人からは、そこはかとない大阪のおばちゃんへの愛を感じる。)それなら、それを人に言われても許容すべきではないかしら。そんな人に限って「人のことを考えなくちゃ」なんて言うのだ。ごめんなさい...なんて言いながら、まじまじと目を覗き込んでしまう時がある。