大人になるということは...

CAVA

大人になるということの1つに、
「きれいな嘘」をつけるようになる
ということがあるとかないとか。
 
「何か」に対して、何だか納得のいく説明があったり、心ときめく話があったりすると、「ふぅむ」という気分が発生する。だいたいの場合、この「ふぅむ」という気分が発生するかどうかなのである。それさえあれば、「何か」は何であってもよく、「何か」に対する説明はどんなでも良いのである。
 
僕の家には「やかん」が2つある。
「やかん」とは何たるかの説明がここにある。

 

  • 昨日、N氏が仕事がてらこちらに来ていて1杯ひっかける

4人程で銀座のスペインに向かう。
薄黄色の液体の中に透明な泡、ハモンセラーノにジャガイモのオムレツ。とろんとした目になる。次に、透明な泡はピンク色の中に浮かび、ニンニクのスープにパエリア。茸に鴨でおいしさがぎゅっとした中で「ふわふわ」としている。この「ふわふわ」があれば、「ふぅむ」は大して必要はなく、その「構成物」も大して必要ないのだ。
彼と飲みに行く時にはそういう前提が成立してしまっている。
「明日が」などという「ふわふわ」を阻害する言葉は、どちらかと言うと「無粋」なものになり下がる。
 

  • 「ふぅむ」や、その「構成物」がいらないとか「きれいな嘘」がいらないという訳ではない

大人になって知識をつけ、相手に受け入れやすい「きれいな嘘」をつく。それは、それで素敵なことで。でも、知識を器用に使い過ぎることは、魔法を使い過ぎてしまうことにも似ていて、鏡を見てその姿に愕然とするなんてことはないのだろうか。
談志を見ていると年老いた魔法使いのように見えてしまう。