ふつうって何だ?

一輪挿しに選んでもらったバラ

姉夫婦の家に行き、金鍔を食す。母の誕生日があったので、四季咲きのミニバラを贈る(母の好きなつるバラは、そうそう売っていないようだ)。家の犬も含め、5匹、久しぶりの一家団欒である(話の流れで、犬に鼻毛があるかを確認したのだが、見当たらなかった)。ゆるりとした昼下がり。
 

  • 「この世でいちばん遠い場所は自分自身の心である。」

(「寺山修司名言集―身捨つるほどの祖国はありや」より引用)
 
僕は、僕で、僕のことを説明することはうまくできない。
だが、この映画は、僕の33%を説明することが出来るのではないかと思う(半分以上と言いたいところだが、そうでない部分もあるだろう。浮ついている今の僕の気持ち)。
 
http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tyst/id332566/pr13/or1
 
僕は、「イカ京」という言葉の意味をよくわからない(「如何にも」であれ「イカレタ」であれ、その定義は様々だ)。が、大学の頃からもよく言われたし、東京に戻ってから「不可思議さ」を伴ってみられるポイントは大学時代にふつうだと思っていたことが多い。
そして、僕はこの映画を見て、昔の自分を見ているような感覚に、指をくわえてじっとしていられないような恥ずかしさを抱く(なぜだか「ホルモー」のポーズに「笑い」はいまいち発生しない)。さらに、懐かしい風景(退廃的な吉田寮や、廻り行く京都の町並み)と拙い心の描写(不器用な勘違い、それに伴う狂喜や落胆)に涙するのだ。
 
僕というモノに流れている血を説明できる映画である(僕はこれを見て励まされる。僕はベタな関西人でもないし、西洋人でもないんだ)。ふつうに見ても、「ホルモー」のポーズ、不可思議さがリアルとなって行く感覚を楽しめると思う。
 
 人が歩いてきた道には景色がある。その色を自分の身体に塗りつける。
 なぜって?その色の匂いを自分の鼻で嗅いでみたいからさ。
 そこには「何か」が潜んでいて、それを通して「何か」が伝わる。
 ねぇ。そうは思わないかい?
 

  • キュンキュン

最後のシーン、鴨川の川縁、菜の花の咲く頃、自転車に乗る(髪を下ろし、できる限りの目一杯の笑顔)。「おい、行くぞ」とぶっきらぼうに声をかけられる。南禅寺だろうか、神社の石畳、俯いてぼそっと言う「眼鏡、壊れちゃった」。その時、おずおずと見上げる目。
 
俳優や女優の名前が覚えられない僕であるが、
 「栗山千明」は、好きである。
 
玄関を蹴飛ばされようと、頬を引っ叩かれようと「この自己中女をぶっ潰せ」と叫ぼうとも。暴力的な中、そこに伝わるひたむきさ(暴力的であるが故に感じられるのかもしれない。不器用だろうと何だろうと伝えたいのだ)。
そこにはリアルがある。