草迷宮

犀川

追憶の中に居る方が今此所に居るより写実的(リアル)だと感じることはないだろうか。
映画を見に行った。ふと思い出し、
慌ただしくタクシーに乗り渋谷へと向かう。
別にそうまでしなくても良いのではないか。
言葉の煌めきを求めて時折こっそりと読む、自分と同じ病気だった人に親近感を抱く、逗子や金沢の記憶が入り混じる。それだけではないのだろう。
手毬唄を追い求めるように見る(http://posterharis.com/terayama2009/movie.html)。
 
映画の中では、求める手毬は、様々な姿となって襲ってくる(日傘となり、子産石となり、西瓜となり、乳房となり)。何故、手毬唄を追い求めているのか。それは主人公にもわからない。母を避け、母を求め、少女を求め、紡がれる赤い糸、砂丘を、水面を、赤い着物に導かれる。記憶の中の母に求め、売春宿に求め、果ては化け物屋敷に辿り着く。色鮮やかな赤、口元に蠢く舌、着物の端から覗く白く薄く赤く染まった肌、うなじ。僕は舌舐めずりしたくなる。偏執した概念が錯綜し、その高まりと共に、音楽が意識を朦朧とさせていく。見えているが見えていない、奥深い、美しい何かの中に引きずり込まれて行く感覚。
 
あの少女と手毬、それは僕にとっては何なのだろう。