お皿の続き(鼎の軽重)

白プル

お皿というものは、
「料理を乗せておいしく食べてのお皿」
だと思うことがよくある。
これは、学生時代のイタリア料理のバイトの頃から?だと思う(盛りつける料理の彩りを引立てるために白が基調、人の顔位の大きさが良い、形状は料理に合わせる)。
 
すると、通常の認識は、「自分 → 料理 → お皿」なのであって、「自分 → お皿」とはならない。僕は、割れたお皿を端に置き直し、破片を除け、チジミの温度が冷めないうちに、まず食べた(無論、ショックではあるのだ)。こういうのは、頭を空っぽ(例えば、ぼーっと散歩をする)にしないと、なかなかならない。
この認識は、「お皿が見えてる」とも「お皿が見えてない」とも言える。
(自分で自分の気持ちを見る時ってこんな感じだと思う)
 
「お皿を割ってはならない」「お皿を大事にしなければならない」となると、お皿を丁寧に扱おうとする。丁寧にし過ぎるとうまく扱えない。うまく扱えないならホールに出る必要はない。「おいしい料理につられ、調理師学校の生徒が修行しにくるようなとこを選んだのが間違いだったんだ!」と思ったりもした。でも、「おいしい料理を出せるんだ!!」なんて思い、もがき続けた。というより、続けさせてくれた。「不器用な奴」だと思われ続けただろうが、一般的に見たら、料理は器用な方だと思う。
 
そう考えてくと、人の承認欲求というのは、やはり難しいなぁと思う。承認欲求を求められれば応えたいと思うし、自分の承認欲求も満たして欲しいものだとも思う(実際のとこ、自分でも充足もできるので、時々頭をなでてもらって「いい子ね」なんて言われれば充分なんだが...実際、人の我侭には自分の何かが救われる気がする)。だが、承認内容やプロセスが厳密だったり、間違いには「不可」しかないと、お皿を割ることが怖くもなるし、「あ”ー、もう」的な気分にもなる(料理屋なら、承認内容やプロセスも明確なんだがなぁ)。元は自分の説明不足が問題なんだろうが、そうやって、僕の頭もこんがらがって、テンポもわからなったのかもとも思う。
 
「鼎の軽重」というのは人それぞれなんだし、伝統があれば重みを増す。軽々しく重さを聞くもんじゃないし、言うものでもないと思う。(こう考えてしまうとこが、他者から見た時の「好奇心>面白い」になりやすいのだろうなぁ)
少なくとも、僕は僕で楽しいのだし、人より楽しくないものではない。素直に言うことはいいと思うし、人の主観をどうこう言うつもりもない。だが、全体を把握してないものに対するマイナスの評価や、頑張っている人に対する笑いには、あまり共感が発生しない。そう言うものは、笑って「そうかなぁ」なんて言ったりもするが、自分がされて嫌なことは人にはしたくない(されたら思わずしちゃうことはあるな、でも、これが多くなるとどんどん素直になれなくなる)。
 
僕は「シャープさんフラットさん」なんだろうな。「シャープ」や「フラット」の音が、僕は少しずつ音楽のように聞けてきたのに。
「自分は変わっているのかもしれない。みんなと同じように歌っているつもりでも少し音がはずれてしまう。こんな風にいろんなことに半音ずれてしまう人のことをシャープさんフラットさんと呼ぼう」(演劇の台詞、2008-10-24 - Vivre, c’est tuer le temps.)ストーリー上、この後、実は誰もが「シャープさんフラットさん」であることがわかっていく。
僕の友達は、僕が「シャープさんフラットさん」であり、僕は、友達が「シャープさんフラットさん」であることを少しずつ知っている。
 
まぁ、拙いながら、いろいろと僕は僕の役目は果たしたはずなのだ。
今度は、自分で自分のの割れた皿を繕ってこう♪
さ、卯月♪
 
今日は「アカウンティング基礎」受講完了!