認知と認識のぶれが生むもの

はんばーぐ

モノをヒトが見るとは何か。
単純にするとこうなる。
 

  1. 視覚でモノのイメージが入力される。
  2. 視覚のモノのイメージを記憶のモノのイメージとマッピングする。
  3. 2つのイメージの差異に反応する。
  4. 3をわかること。

 
簡易に分類をしてみよう。

  • 2つのイメージの差異が小さい場合
    • ん、何か違うかな?気づいても、あまり4の反応はあまり発生しないこともある。
  • 2つのイメージの差異が普通な場合
    • ん、何か違うな。気づいて、4の反応をする。
  • 2つのイメージの差異が大きい場合
    • ん、何か違う。大急ぎで4の反応をする。他のイメージから類似パタンを探して補完する。
  • 記憶のモノのイメージにマッピングできない場合
    • ん、わからない。そのため、4の反応は過剰になる。うまく補完できず、そのまま不安や苛立ちとなってしまうこともある。

 
3の反応も4の反応も、その時に放出されているホルモンにより異なってくることが多い。微細なことが気になっているときは気になるし、気になってしまうとそれが許せなくなったりもする。でも、その差異は笑いになったりもするし、好奇心にもなる。いっぱいわかると、あぁそうかぁとなったり、感動を生んだりする。少しずついろんなものに結びつけていくと、しみじみとした感情に結びつく。
 
もし、たくさんの怖れが発生したとしても、解消する方法はいくつかあると思う。

    • そのもの自体を怖れず、別な言葉で再認識する(こんな論理的な解釈)。
    • 外に出して、人の解釈を貰う。
    • 外に出して、違った時間の自分で見る(例えばこのページ)。
    • 単純に他のホルモンで上塗りする(例えば、セロトニンで安心をとりもどしてから、ドーパミンで幸せ感に占有させる)。

 
こう考えた時に、じゃあ、その仕組みに訪れるものは何でも良いのではないか? となるだろう。が、
 
何でも良いとも言えるのだが、何でも良いわけでもないのだ。
 
誰でも、僕にも、生きて来た経験もあるし、もとの気持ちも状況もあるし、その仕組みの特性(わかり方やどのホルモンに反応しやすいか)もある。これは誰にとっても大事なものだ。また、反対に、それが、さらに嬉しいと思えれば、何でも良いとも言えるのだ(勿論、限界はあるが、ヒトが嬉しいと思ってやってることには、その楽しさがどこかに隠れているのだ)。
 

  • 盆踊り好き

やったことがないこと、多くの知らない人の前で演じること、これは、人見知りな僕からすると、かなり不安。だが、不安なことと、好き嫌いとは違うのだ。
 
去年、「恵比寿駅前盆踊り」に行った。とても楽しかった。

    • 浴衣を用意し、屋台でちょこちょこ食べ物買ったり、ビール片手にほろ良い気分。
    • ちょっとドキドキしつつも、輪に入る。前のおばちゃんの真似をしながら、ちょこちょこと身体を音楽に乗せてみる。だんだん、慣れてくる。慣れてくると、音楽に身体を委ねているのが嬉しくなる。程よい頻度で繰り返される。前後の人との間合いはちょっとした会話みたい。何かいんだよね。
    • 『恵比寿音頭』『Yes,Yes,EBISU!』(恵比寿音頭のサンババージョン)の2曲というのが、また良いのだ。何だか心がウキウキするような感じなのだ。そして、音に身体がフィットするタイミング、これがいいのだ。

好きになるには、他のメインファクターも勿論ある(誘ってくれてありがとうございました)。それから、単に嬉しかったことを思い返してみたり。他の盆踊りって、どこでやってるのだろう?と調べたり。恵比寿音頭のCDは、どこで売ってるのだろうと思ったり。歴史や背景を見てみたり。それを友達に話してみたり。そして、また、チャンスがあれば行きたいものだと思う(1人で行ける程に好きになれるかなぁというのはちょっと不安)。
 
きちんと受けとめること。好きも嫌いもいろいろある、怖いや楽しいもいろいろある、自分がとか、受け手がとかもいろいろある(勿論、好きや嫌いが先にあるのが普通だと思うし、嫌いなものをわざわざやろうともあまり思わない)。受けとめてどんな素敵な色を塗り続けるかが大事だと僕は思う。そして、それを伝えたい人に伝えてわかってもらえたらなと僕は思う。
 
盆踊りは素敵な夏の華の1つだと思う。