電話が好きか嫌いかと問われたら

くろでん

電話は好きでもあり、嫌いでもある。
 
最近、電話を物入れから取り出してみた。もちろん電話線をつないでも、あの、「繋がっているよ」「通話可能だよ」という音はしない。契約をしてないから。
黒電話は、形としても楽しい。この楽しみを長らく忘れていた気がする。あのダイヤルを回す感覚、覚えている7桁の番号をドキドキとウキウキの混じった気持ちでゆっくり1個ずつ回す。黒電話は1個ずつ丹念にわかってるって声を出す。呼制御され、発信音が鳴る。繋がらないかなと。
楽しい会話。名残惜しく電話を切るタイミングを図る。終わりには「さよなら」とは言わない。「再見」という意味に通じる言葉を使う。相手が切る。その余韻と音に浸りながら、そっと白い部分に手を置き、受話器をおろす。「チン」とかわいらしくも物悲しい響きと共に頭の中に会話が駆け巡る。
 
電話が嫌いなことの1つには、その「リンリン」という音に強制的な反応を求められるところにある。どんな時でもだ。タイミングが予測され、それが嬉しさを運んでくるものならいいのだが、そうでもない時も多い。
もう1つは、その切断部分にある。子供心によく覚えている。その、黒い物体と対話をしている誰か。喜んでいそうな時はさして気にならない。悲しみや苛立ち、それを黒い物体に投げつける。僕はその表情に惑う。身近な人が強烈に感情を発すると、どうしても伝染ってしまう(家では他の人が電話をしてる時は静かに待つのが流儀)。そして「ガシャンチン」という音とともに、その悲しみや苛立ちがこちらに向くのである。
あの「ガシャンチン」という音は大嫌いだ。実際、自分で電話をしていても、あの「ガシャンチン」はどうも苦手だ。
気持ちの余裕があれば、切断の音と名残惜しさの余韻に浸れるのだが。
 
電話というのは、本来そこにいない人との会話が突然始まり、突然終わるのである。突然の電話はドキドキだ。今では電話番号からある程度、記憶から想起できるが、想起できないことも多い。人はわからないことに対し、怖れや不安、苛立ちを示す。だから、よく突然の電話を気にする人は多い。僕からするとそれはまだ良いと思う(音、気構え、結局人がみえる)。
逆を考えてみよう。切断とは、つまり、そこに居るはずの人が記憶の中だけの存在になることなのだ。もともといない人だから良いのではないかと思う人もいるだろうが、電話をしている最中、近くに人が存在しているかのような感覚を抱くのが普通だと思う。それが、強制的に切断されるのだ。どちらにしろ、自分の中だけにみえる人であるのは変わらないのではないか? 確かにそうなのだが、やはり、それは何かが違う気がする。僕は基本的に電話の切断音を相手に聞かせない。自分が傷つくとわかっていても。
電話から少し逸れる。何がリアルか、そして、何を近くに感じるかという問題はあるだろう。そして、人には諸処の事情はあるだろう。ただ、人の存在、それが記憶の中だけのものか否か、それは、記憶の外の人と対話をするように頭が仕組まれているからか。人の存在、それが記憶の中だけのものか否か、それは、大事なことだと思う。こういう類いのことは、僕には軽々しくできない。でも、こういう時こそ気持ちに余裕を持てたら良いな♪と思う。
 
電話は好きでもあり、嫌いでもある。