我が闇1

しゃぼんだまが奏でる音

僕が、僕の好きなように表現して良い自分を知ったのは幼稚園の時だと思う。幼稚園の中では好きなようにできた。
 
例えば、マンションの裏を走る山手線や貨物列車、祖父母を訪ねるために乗る京王線や中央線、遠くにいくために乗るL特急が好きだった。僕は、たくさんの段ボールに電車を描き、幼稚園中に線路を描き、皆で走り回る。ウサギやリスになって跳ねてみたり、絵を描いたり、蝉や蜻蛉を捕まえたり、砂場で遊んだり、そこには、いろんなヒトが存在した。
でも、僕は家に帰ると違っていた。そこには、嬉しいふりをしている自分がいた(ほんとに嬉しくしてる時も勿論ある)。描く絵にも家族はほとんどない。僕は、僕が嬉しそうにすることだけが、家族への穏和な救いとなることを気づいていたのだと思う。僕は、僕のできる限界をわかっていたし、あまり傲慢でもなかった。
 
そう考えると、このことは30年近く、僕の頭の中で巡っている。彼らは僕を中和剤として生きてきた。僕は家族が好きだし、嬉しい状態であって欲しかった、壊したくなかった。父母は、悲しみや苛立ちを大量に生産し続け、自分で消費することが出来ずに、僕という中和剤を頼る(幾らでも受け取るさ。でも、その哀しみを受け取った僕はどうしたらいいのさ)。そして、僕というモノを通してしかコミュニケーションがとれない状態になってしまった。さらに、母は、僕という存在がなければ存在意義を形成できない状態になってしまった(あのドラマは嫌なタイミングだった)。僕が京都へ行くことで当然全てが崩壊する。
 
2つの意味で、姉には申し訳なかいとよく思う。僕が、10代に中和剤として生きた、20代には自分のために京都へ行ったという自分の選択である。その後、姉は別な自分の嬉しさを見いだし、時々僕に笑顔をわけてくれるようになった。僕も笑顔を返せる。本当に良かった♪
 
ここは、10年前から、幾度となく考えている。その時、僕の哀しみを受けることを拒否せず、把握してくれる友達がいた(僕はその時に初めて知った。自分の感情に言葉を与えるということがどれほど危険なのかを)。でも、今回は最後まで自分で考えてみようと思う(少しは強くなれた?)。多分、ここは、僕の多くの部分の起点となっている。
今月は、考える道筋は用意しているけど、先月のように結論を用意していない(これができないと僕はまたヒトを哀しみの底に沈めてしまうかもしれない)。少しずつ息継ぎをしていこう。僕も溺れてしまう(昨日の文章はちょっと危なかった)。
 
一応書いておこう。。
僕は家族というものをとても大事にしたいと思う。ただ、僕は家族というものに少し複雑な思いが発生してしまうため、安易に答えられなくなることが多い。
そのことをほんの少しでもいいので意識してもらえたらありがたいと思う(聞くのは嫌じゃない、どちらかというと好き。でも、共感への反応が遅くなる場合があります)。