おねがいごと。それが言葉となる時。

しなたつ

休みのときに友人にプログラム言語を教えた。友人のカナダに行ったときの体験談を聞いたり話も弾む。程よい時間で教える内容も終わる(時間が短縮の要因は「学ぶ」と「教える」の関係を彼も僕も少しわかって来たからかもしれない)。
そこで「この部分がわからないから、ちょっと直して欲しい」と、そして「やりたい気持ち」と「できることによる効果」を訴える。
少し悩む。確かにそれができると、学習の次の展望が開けるし、学習のモチベーションの維持も保持できる。
「相手に取っての欠如が、自分の能力で回避されて、満足してもらえるかも」という誘惑に、僕は思わず前向きになってしまう。「だめだよ」って言う言葉が僕の耳元に聞こえる。
それでも、彼の満たされない気持ちの表現は続く。1:1で話し続けると、相手の気持ちが僕の頭を占有してしまう。「諾」という意味の言葉を発する。
その言葉は、僕を突き動かす。「やりたい気持ち」と「できることによる効果」を満たすことをスコープとして最適化を図る。
そして、やってしまう。最適化へのトリップへと潜り込むのである。
(僕もしばしばやってしまう。「A→B』とすれば簡単。簡単に見えるものは、簡単に変えられるように見える。でもそんなに簡単に変わるものでもない。でも、簡単にして見なければ、そこへ飛び込む勇気がなくなる。この状態さえも、言葉はいとも簡単に抽象化する。「二律背反」と)
終わった満足感は得られる。ラーメンをおごってもらっておいしいなと思っても、それがいい言葉にならない。伝えられるのは、消耗した僕と「これからも頑張って欲しい」という気持ちの表出だけ。