イチゴ泥棒

イチゴ泥棒

ふらふらと満開の桜を辿りつつ上野に向かい「asahi.com : 朝日新聞社 -「生活と芸術―アーツ&クラフツ展」」に行って来た。
こういうモノは日常の延長線上にあるのが良い。
畏まって見るモノでも、キラキラ探しで見るモノでもないと思う(勿論、それも一部だが)。どちらかと言うと、「そう、それね〜何かいんだよね」なんて言いながら見たいもんだ。
 

  • 「アーツ」と「クラフツ」

展示は「1階→2階→3階」と続き、「イギリス→ヨーロッパ→日本」となっている。気分は「ウキウキ→多すぎ→落ち着き」となる。僕的に、「クラフツ」は「アーツ」の要素があった方がいいけれど、「アーツ」ではないと思う(「美術」と「工芸」という意味でだ)。使うときのちょっとしたウキウキ感や大切にしたいな感がいいのだ。
「1階の椅子の曲線、2階のファブリックボード、3階の三国荘」が、なかなか良い。ただ、「1階→2階」は、ちょっと冒険し過ぎな気がする。3階の「三国荘の再現展示」が、特に良い。勿論、こんな触れちゃいけないモノは要らないが、「普通に使えて、ちょっと嬉しい、全体として調和していて、個別に見てもちょっとずつ嬉しい」というのが良い。「さりげなく使えて、さりげなく大事にできる」そんなもので、身の回りを揃えたいものだとよく思う(ウキウキに走りすぎた衝動買いがまだまだ多いが...)。
 
「新しいモノを自分に取り入れる」→「慣れと大事にすることのせめぎ合い」→「モノが身体になじむ」(「スタイル→モノ」でも良いし、「モノ→スタイル」でも良いと思う。ただ「固定化されたスタイル」も大切だが、僕にとっては「せめぎ合い」が大切だ。それが「自分とモノの対話」の1つだと思うのだ)
 

  • イチゴ泥棒

「イチゴ泥棒」という名前に惹かれ、写真右のハンカチを買ってしまった。草木の中でイチゴを鳥がついばもうとしている図柄。装飾がちょっと多めなのだが、使ってくうちに慣れてくるだろう。
「ちょっとね、食べたいの」そんな思い(ホントかどうかは知らないよ)を作り手からかすめ取り、僕は対価を払って身につける。
 
上野公園には、
 「これでどうだ」と言わんばかりに桜が咲いていて、
 「それならこうだ」と言わんばかりの人の喧噪、
時々は中に入ってみたいとも思うけど、それを眺めるくらいがちょうど良い。