かけらの中に見えるもの

日高

周りの人が少なくなると僕は僕の時間がとりやすい(物理的な人のことを言っている訳ではない)。1時過ぎからお昼ご飯を食べる。隣の方に教えてもらったのだが、最近このお店がかなり気に入っている。ロケタッチ、サービス終了のお知らせ : ロケタッチおしらせブログ
 
ちょっとずつ盛られているのが右の写真でわかると思う。この一品一品が、手が入っていてそこにちょっとした優しさがある。それは僕を押しつけたりしない。僕は、食べたいものを選ぶ。銀鱈の西京漬、ほうれん草の芥子和え(芥子は上に黄色くちょっと添えてあり、根の少し濃い桃色が垣間見える)、そして、たまご焼を選ぶ(他にも選べる)。カウンター越しに垣間見えるおじさんとおばさんの動き(丁寧な手の動き、素材への優しさ、お客のことは意識しつつ、それと悟らせない店内での自然な動き)。
実は、この他にも暖かくおいしいご飯にかけるふりかけがある(松の実が入っている。もう1度写真を撮りたかったけどやめた)。
 
僕はこんな時の返事はわりと決まってる。おいしく食べること。そして、言葉も少し加える「ごちそうさま」少し微笑みながら。「おいしかったです」少しほっとしたような感じで。
 

  • 垣間見えるもの

見えるものがあり、見える人がいると、僕は程よく答えたいと思う(店員はあまりしゃべらない方が嬉しいが、表情を垣間見せず料理だけで勝負を挑むような店に僕は1人で入れない。それなら食べ物を価格に応じて提供する店の方がよっぽどましだと思う)。そして、実際のところ、僕にとって料理から垣間見える人のかけらはわかりやすい(もともと、おいしく食べてもらいたいと思っている訳であるし、逆に料理の方がすんなりわかるときが多い。勿論、その料理と空間に全てを隙間なく表現し、その表現のみを味わってもらいたい人もいる)。
 
よく困ってしまうのは、人の会話から垣間見える人のかけらである(ぼーっと考えていたものに形が与えられてしまう)。ここにはとても多くのバイアスがかかり易いからである。
同じ人を見た経験があれば、僕は僕の中のその人を再生し、なるべく客観的にその再生内容を伝える(僕の場合、ビデオテープというより、SFに出てくる思念体、もしくは、本やマンガでに登場するもう1人の自分という記述が近い。それが特定の情景の中にいる)。
同じ人を見た経験がなければ、僕は、自分から見えるその人であることを強調してしまう。そして、聞く時は、なるべくコメントを差し控え、話している人の思いのみを聞く。
 

  • 垣間見えた人

同じ人から何回かその人のことを聞いてしまうと、見たことのない人のかけらが、話している人から垣間見えてしまうことがある。表情やトーン、雰囲気で補完されてしまう。こういう時、細心になる(存在を穢してはいないだろうか)。ほとんどの場合、僕はそれに対して情景も与えないし、言葉を与えない。
少し見直した方がいいと思うときがある。少しだけ自分の中に見えた情景を言葉にする(できれば読み流していただきたい)。
無心な笑顔を見つめる澄みきった微笑み、そこは華やいだ温もりでいっぱいで、ずっと前からそこにそっと添えられていて、ずっと後にもそっとそこにあるような感じがしました。