再構築

繭の家

秋に「越後妻有アートトリエンナーレ」に行ったのだが、
T氏が、その折に撮ったものを編集してくれた。
その映像*1を先月半ば、見せてもらった。
 
「再構築」

現代アート的なもの」には「感じること」を伝えるものが多い。
この作品からは「感じること」がいっぱい貰えたと思う。
N氏は「『現代アート的なもの』には、作品から感じる旨味*2が少ないから、あまり好きじゃない」と言う。確かにそうだな*3と思った。
だが、僕の言い分だと、目的が異なるのである。落語に枕は必要なのだし、何も考えず楽しく遊びたいだけの時もあるのだ。どちらが良いと言う訳ではなく、気分により程よいポイント*4ずらしたりするものだと思う。
そして、そのひとつひとつにより自分が構築されている。
 
また、別の作品であるが、
「繭の家」の暗闇の中の光*5と雨音*6は、素敵だった。

*1:全体は40分近くあり、一部を見ると、粗さが気になるかもしれないが、全体としての完成度は、テレビ番組にも劣らないと思う(初めて見たN氏もそう言っていた)。

*2:「何だかうまいよな〜」と言いたくなるような感覚。単においしいとかうまいとかではなく、もう少し余韻に浸るような感覚。

*3:僕にとってわかりやすい言い方をすると、感覚受容と知覚が「ぱっと」つながるものと、「じんわり」つながるものとなる。「ぱっと」つながるというのは、チョコレートですっと甘い世界に浸ることに近い。

*4:「ぱっと」ばかりでは、うるささを感じ、「じんわり」ばかりでは、わずらわしさを感じる。

*5:暗闇の中、雨戸の隙間から差す光に繭が映る。写真参照。

*6:蚕が桑を食べる音は、恰も雨音のように聴こえる。暗闇の中で聞くと、本当に雨が降っているかのように感じた。「暗闇の中ではそう感じるものだ」とわかっていても、その感覚を上回るのだ。