言いたいこと言う時って

おべんきょ道具

論理学な勉強とアカウンティングの勉強をした。
会は月1回だが、もう、なんやかや言いつつ1年だ。
 
無理のないとこでのビジネススキルの向上を目的としていて、同じ位の理解レベルで、程よく互いを理解しているため、
まぁ、程よく楽しいのだ。
 

  • 雑談で、

「家を買うことを考えている」と「民主党の動向が気になる」ということは、僕の頭ではあまりピンと来ない。だが、この面子だとなかなか良い。「家を買う」「お金がかかる」「ローンを組む」「今、金利政策が揺れている」「モラトリアムってどういう意味?」「そうか、今は猶予期間なんだね」「複利になると...」
知恵を合わせ、知識を確認し、わかるレベルを模索し、把握する(互いに、自分の見方、一般的な見方、相手の見方を程よく配慮する)。
 
ソフトウェアの開発をなりわいとしているせいだろうか?こういう会話は安らぐ(知識の欠如は相手への否定へと繋がり、網羅性のない知恵は攻撃の材料となり、議論の焦点は「どれだけ自分が喰らわないか。他人に押し付けるか」になることが多い)。
 
これには別の意味もとれる。互いの利害はあまり絡んでいないし、価値基準は合致しやすい。いろんな議題を蚊帳の外からあーだこーだ言っているに過ぎないとも言える(でも、この面子であれば、上記のような場でも話せそうな気はする)。
 

  • 評ということについて

評論ばかりする人というのはいまいち好きになれない。「他人のことは好き放題言うくせに、自分が何か言われると、一般的な価値基準において...」となる場合が多い気がしてしまう(これは僕の先入観が強いせいかもしれない)。H氏のブログの作品評が好きなのは、興味がかぶるとこが多いのもあるけど、ちゃんと自分が思ったことを素直に書いるっぽいとこと、「自分の見方、一般的な見方、作り手の見方」がきちんと出てると思うとこだなぁと思う(残念ながら僕のブログは基本ログである。モラトリアムでもないのだが、僕もまだまだなのだ)。
 
表層。内的なものは、表層の皮膚に滲み出るものだと思う。それは、それほどまちがっちゃぁいないと思うし、自分でも気にするもんだとは思う。だが、それを元に恰も当然のように断罪し、僕に同意を求めてくる人には「何なのだろう?」と思ってしまうことがよくある。
 

  • 酒を飲んで言いたいことを言う

それは、それで、まぁ良いのだが(昼でもいい訳で)。
「ふわふわとした中でお酒の神様と戯れるもんじゃぁないのかなぁ」
と自分では思う。
(あまり、人を気にしすぎたくないもんだな。あんま、人につっかからんで欲しいもんだよなぁ。それと、酔っぱらって収拾がつかなくなる人を気にしたくはないよなぁ。場を気にしてまともでいなくちゃなんて思いたくないなぁ。安心して飲ましてくれよとよく思ってしまう時がある)
 
久しぶりに封を開けたのだが、T氏にもらった酒、旨いな。